「新宿から屋久島へ」
―――――― それでは、なんだかいまさらな感じもしますけど(笑)、簡単な経歴から教えてください。
実は東京の新宿区生まれなんですよ。インターナショナルスクールに幼稚園から小学校4年生まで通っていて、小学校5年生の時に両親の仕事の都合で、屋久島へ。それから高校卒業までを屋久島で過ごしました。
―――――― 新宿から、屋久島ってのも相当カルチャーショックですよね。
インターナショナルスクールに通っていたこともあって、日本語での会話っていうのが少し不自由してましたね。なんか、すごく違うところに来てしまったという感覚はありました。
―――――― 高校時代までを屋久島で過ごして、それからどういう流れでiBSヘ?
インターナショナルスクールに通っていたので、英語には自信があったんです。高校1年から英語のスピーチ大会などでよく先生から推薦されていたこともあって、高校3年時はスピーチ指導をiBSで受けさせていただいたんです。松下先生には本当に色々と指導をいただいて。そして、全国高校スピーチコンテストに参加。高校3年生の時に鹿児島県大会を優勝して、鹿児島県代表として全国大会に出場して、その大会で2位を受賞。大学に進学を考えていたものの、iBSのスピーチ指導法に興味があり、自分が学ぶべき環境と自分自身を見つめ直すことがここにあるのではないかと思い入学してみました。
「iBSに入学して」
iBS入学後、楽しかったです。まじめに頑張る1年かと思っていたのに全然(笑)家族のような、兄弟のような仲間がほんとに増えました。人とのつながり、というのをあらためて感じましたね。iBSに通った1年、誰かに認められる、他人に自分を受け入れられるのを感じました。
―――――― 他人に自分を受け入れられる、って話がありましたけど、どういう事ですか?なんか、今のイメージからすると少し思いがけないですが……。
いきなり新宿から屋久島に移り住んで、英語を話すことがコンプレックス、って時期がやっぱりありました。少し引っ込み思案というか言いたいことが言えないっていう事もあったことから何が正しいか迷っていたと思います。小学校終盤ではいじめにもあった時期ありましたし。
―――――― 今日だって、ある意味、出来の悪い先輩からパワハラなみにインタビューを受けさせられているという……。
大きな声では、言えないですけどね。ホント突然!(笑)
「まずは、ラスベガスへ行ってみた」
―――――― iBSを卒業して、そのあとはどうされていたんですか?
iBSを卒業後、鹿児島で7~8ヶ月アルバイトをしてました。なぜか、僕たちの期(37期)は通訳ボランティアがなかったんですよ、カリキュラムで。アメリカに行く前に、この通訳ボランティアはやっておきたかったんですよね。実は、結構準備周到なほうなんですよ。だけどホントのこというと、アメリカのカレッジにアプライするのが、遅かったんです(笑)
―――――― さすが、役者は言い回しがうまい(笑)
そして、2013年1月にラスベガスのカレッジ・オブ・サザンネバダに入学しました。ラスベガスを選んだのは、エンターテイメントといえばラスベガスっていうイメージだったんですよね。俳優になりたい気持ちはあったものの、具体的俳優がどんな職種でどうやって俳優になるか全くわかってなかったので、まずは大まかにエンターテイメントの世界を勉強してみたかったんですね。
―――――― でも、ラスベガスである必要もない。なんか、少しここでも言い訳っぽい感じがしたんですが……。
あとは、治安と生活費の問題もありましたし。メジャーとしてシアター・アーツを専攻したかったんです。エンターテイメントの世界ってどうなんだろう、そして自分を表現するメソッドを学びたかったんです。まったく、その当時は俳優になろうという意識はなかったですね。本当に、エンターテイメントの世界を学んでみたかったんです。
シアター・アーツというのは、エンターテイメントの大枠を学ぶ感じだったんですね。だけど1年勉強していて、人前でパフォーマンスをする機会を何回か得たんですね。その経験をしていると、やっぱり人前で演じて喜ばれる、楽しんでいただけるっていうところが非常に面白かった。あと、2ヶ月だけですけどマジシャン 原 大樹さんとの出会いはとても大きかったと思います。たまたまカレッジの図書館で出会うことなるんですけど(笑)、そのタイミングで本人と食事をしたり、自分が主演の学生映画を見てもらったときに、アシスタントとしての依頼を受ける事になりました。2ヶ月かけて舞台を作ったり、リハーサルをしたり、一流のエンターテイナーがどのように準備し、どのような選択が優先されていくか、プロとして活動するがどのようなことか、すごく勉強になりました。
―――――― つまり、その経験で役者としての芽生えがあった、と。
エンターティナーとしてやっぱり独り立ちしたかったんですよ。
1年目が終わろうとしていたころ、シアター・アートの最終試験があったんです。演技のクラスなんで、ベガスの舞台のキャスティングデレクターとして第一線で務める方が当日来られて、100人ほどのお客さん、キャスティングデレクター、そしてその演技クラスの教授すべてが審査員になる会場で試験がありました。幸いにも自分は満点だったんですね。そこに、自信をもっちゃった。クラスメイトはエンターティナー志望のやつばっかりだったので、ますます。
―――――― それは確かに、自信が出そうですね。
2年目は、カレッジと同時にプロ俳優のみが受けれるアクティングクラスにも友人の紹介で通うことになりました。2014年度に“Backstage.com”というハリウッド&ブロードウェイ中心としたエンターテイメント情報サイトで “LA Best Camera Acting Coach”に選ばれた Ryan R. Williamという方がメインで指導するアクティングクラスでした。ここのアクティングクラスっていうのは、演技専門に学ぶところではなく“演技”という技術をお互いに磨いていき、俳優業のマーケティング方法やキャリアを磨く方法などをお互いに情報交換していく場所でした。脚本もプロが書いたものをベースに、シーンスタディ、インプロ(即興演技)、オーデションの対応など8時間にも及ぶクラスで一気に行ってました。
そして、このクラスからキャスティング情報の共有がデジタル化してきている状態を学び、情報を得る術、自分で俳優業をゼロから1にできたきっかけだったと思います。エージェントとの契約も即戦力になるタレントのみクライアントとしての契約を結べるので、サイトに登録したことによって即戦力を探せるというクライアント側も見つけやすい利点もあるし、俳優側も独自の力でアピールできる時代になったタイミングでした。その時が “OBie Sho” っていう芸名ができました。
「OBie Sho の誕生」
―――――― それから、カリフォルニアに引っ越すことになりますね。
ラスベガスには丸二年いました。カレッジ・演技・俳優業、この3つを両立させるには、やっぱロスアンジェルスだろうと。そこで、ロサンジェルスにある演劇学校に通ったんです。この学校は留学ビザも出してくれるし、OPTも出る。そうすることによって、本当に俳優としてアメリカでスタートできる足掛かりを見つけられたんです。ラスベガスって、やっぱり白人至上主義なんですよ、人種差別もあるし。アジア人のキャスティングなんてほとんどなかったんです。だけど、ロスならアジア人のキャスティングがある。そして、なんといってもOPTが欲しかった。
―――――― OPT(Optional Practical Training:アメリカの学校にF-1ビザで在席していた学生に1年間の就労許可を認める制度)っていうのは、制度上いいものですよね。
ハリウッドって、やっぱり許容度が大きいんですよ。アメリカのタレント、っていう感じではなくって、まさにハリウッド、世界のドアが開いているような感じがしました。ビジネスの規模も違うし、プロセスも全く違う。映画の製作費用もハリウッドは世界中から資金があつまって、世界中のマーケットに影響力があるようなものを出していこうっていう雰囲気がありますよね。
ラスベガスで自分がみてきたものは、ほんとにその一部であり、同じアメリカであってもラスベガスではあくまでハリウッド外で見てきた映画業界だったってことでしたね。あと、すごく痛感したのは、ラスベガスってアメリカ人が求める演技ができる俳優がチャンスを得やすい。その当時からいまでもそうですけど、その現実を受け入れつつ自分なりのアプローチが必要だと痛感しました。例を一つに例える、英語を完全にアメリカ人レベルで話せて演技できないといけないとかです。
もうすこし具体的に説明すると、ラスベガスってアメリカ人が思うステレオタイプにはめていく必要があって。つまりラスベガスもやっぱりハリウッドと比べるとまだドメスティックなんですよね。それでも自分みたいな外国人タレントって、母国である程度キャリアを築いてアメリカ来るけど、自分はアメリカのローカルからキャリアを始めたことでアメリカ人が見る”ハリウッド”と海外から見る”ハリウッド”を二極化して体験できた事は、今の自分自身の大きな財産です。
―――――― キャリアというのは、海外にいると形成されていきますよね。日本だと、大学を移ることもあんまりやらなし。
演劇学校で1年、OPTで1年、それからアーティストビザで3年。アーティストビザでも、やっぱり仕事に制約が出るんです。アーティストビザって、Extraordinary Ability Talent 専用ビザなんで。制約がやっぱりあってエキストラで仕事を受けられないし、俳優としてアメリカ滞在してるので俳優外の仕事すべて合法じゃなくなります。自分は喉から手が出るほどほしいハリウッドの登竜門であるテレビ出演もグリーンカード(アメリカ永住権)、市民権が必要なんですよね。なので今はアメリカのグリーンカードを取れるように優先して活動してます。
「カナダに移住してみた」
―――――― いま、カナダにいらっしゃいますよね。また、どうしてカナダなんですか?
アメリカのグリーンカードを得るためには、やっぱりクレジットが必要なんです。なので、カナダに移りました(笑) どうしてアメリカからカナダかっていうと、カナダで実は多くのテレビ番組の撮影をしているんです。アメリカだと俳優協会などの制約が厳しくて、製作コストも高い。だけど、カナダだとその制約がゆるいので、Netflixなんかもかなりの番組がカナダで製作されているんです。あとは、製作費にかかる税制とか、撮影許可なんかもアメリカと比べると取りやすい。バンクーバーで行われている撮影(テレビ・映画を含めて)の7割はすでにアメリカで放映されるものが撮影されているんです。
―――――― ああ、知らなかった! それは、トランプ的にもマズいですよね(笑)
これがトロントだと、カナダ向けなんですよ。バンクーバーはほとんど、アメリカの番組のために作られている。しかも、日本人の僕からすると、在留資格をワーキングホリデイに切り替えることによって受けられるオーディションの幅も広がっていく。
―――――― ある意味、ひょっとすると映画よりも視聴者は多いかもしれませんからね、最近だと。目標としては、どんなところになりますか?
まずバンクーバーで過ごすこの一年は、大手テレビシリーズ・ウェブシリーズになんとしても出演することです。アメリカでは3年前から何度もオーデションの依頼を受けてきて、在留資格的に出演が叶わなかったので。カナダでのリベンジになりますね、ホントに。テレビ出演して本当のハリウッド業界に身を置きたいと思います。
―――――― メラニア・トランプだって、そういうステータスからキャリアを始めてますからね。
将来は、ハリウッドで俳優としての地位を築いて、ハリウッド代表するタレントになりたいですね。日本やアメリカ、その他の国で応援してくれてる家族、友人のためも。そして最終的には、ハリウッドをベースにアメリカに住む方々に”アメリカのタレント”として認められたいですね。アカデミー賞で主演男優賞者としてオスカーを得るとか、日本で有名になることも大切だけど、そこが目標になるのはアメリカで認められたいという強い思いがあるからです。
―――――― 人生は多難なほうが、いいと(笑)
日本人の方々にも、海外にこんな日本人がいるって事から何かきっかけになれたら幸いです。まだまだこれからが勝負どころになるタイミングではありますが、一つ一つの過程を確実にして自分が可能だと思う道で、切り開いていくつもりです。
応援してくれる皆さんが、本当に応援しがいあるOBie Shoになるよう!必ず!
―――――― ありがとうございました。
尾畑 “OBie” 祥:37期卒
カナダ・バンクーバー在住
1992年生まれ。OBie Shoの名前で活躍中の俳優。
公式ウェブサイト https://www.obiesho.com/
最新作WALKING POINTのトレーラーはこちら。
https://youtu.be/HPnvA4kwlW4